ミセルチカラの磨き方
自分から出てくるものを、感じられる自分でいる
心意気を形にするコトノハ職人、岩井洋美です。

今日から10月です。
9月はほぼ毎日雨でしたから、「陽射しを取り戻したい!」そんな気分です。
私は度々母のことを書いていますが、昨日9月30日、母が91歳の誕生日を迎えました。
去年の卒寿を祝う「うたかい」から一年です。
去年は「90歳まで生きてきた母」を祝う誕生日。
今年は「この一年を生きてきた母」を祝う誕生日になりました。
この1年を振り返れば、「90歳から91歳になりました」という一年ではありません。
2月末にホームで発生したノロウイルスに感染して、誤嚥性肺炎も併発。
緊急入院して、3月の1ヵ月間はまるまる入院生活を送ることに。
退院時に言われた「もう戻れないと思っていた」という看護師長の言葉通り、厳しい状態が長く続いていました。
退院してからも失った味覚が戻らず、食べることが難しい状態が継続。
この1年、決して穏やかな時間ではなかったことを思うと、91歳の誕生日を迎えられたことの意味が違っています。
91歳になった母は、一見すると去年とそんなに変わりません。
味覚障害を克服して食べられるようにもなりましたし、年齢相応の物忘れはあるにせよ、理解力はまるで衰えていません。
でも、この一年で失ったものもあります。
身体にかかる負担は増えました。
生活の自由度も下がりました。
QOLも明らかに変わっています。
単純に「できている」=「以前と同じようにできている」ではありません。
ただ、「できることが減った」「選択肢が減った」だけで見るものでもないと思います…というか、思わされます。
それは目の前の母が一生懸命に「今を生きている」からです。
大好きなどら焼きをほおばって、満面の「おいしい」があります。
自分に会いに来てくれる人がいて、涙いっぱいの「うれしい」があります。
以前よりずっと大きな負荷がかる身体で、自ら立つ練習をすると言います。
発語が難しくても伝える努力をする。
不自由な手で朝晩の電話もかけてくる。歌をうたう。
「自分から出てくるもの」を言葉にすることには制約があっても、感じる自分はちゃんといて、できることは自分でやろうとしているわけです。
「自分から出てくるものを、感じられる自分でいる」というのは、ただポジティブでいようということでもありません。
子供のように無邪気でいようということでもありません。
そこには、大人としてあるべき配慮もあれば思いやりもあります。
母を目の前にすると自分の生き方を問うことになります。
「私は今日、愉しいって感じた?」
「美味しいって思った?」
「自分の景色をちゃんと見てる?」
「私は丸ごとの自分で今日を生きた?」
常々「自分の心意気に沿って丸ごとの自分で生きる」ということを大事にしていますが、それは立派に生きることでも、正しく生きることでもないんです。
「愉しい」「美味しい」「うれしい」「嫌だ」「これは違う」。
そういう自分から出てくるものを感じられる自分でいる。
その自分で景色を見る。その自分で選ぶ。
だからこその「丸ごとの自分」なのだと思います。
91歳の母は、なんだかそこをものすごく原始的な形で見せてくれているようにも感じます。
夫はよく母とビデオ通話をしてくれるのですが、母は毎回夫の顔を見ると「ありがとう」って泣くんです。
昨日も言ったから今日はもういいということにはなりません。
その瞬間に出てきた「ありがとう」は、その瞬間のもの。
母は出てきたものを、そのまま受け取っています。
母を見ていると、「生きる」ということは、何かができることでも、何かを成し遂げることでもなくて、その瞬間に自分から出てきたものを、ちゃんと自分で受け取ることなのかもしれないと思います。
「愉しい」も「うれしい」も「ありがとう」も、「嫌だ」も「これは違う」も。
今日の自分から出てきたものを、今日の自分がちゃんと感じる。
91歳の母は今日も、丸ごとの自分で生きています。
それでは、今日も1日お元気で。
★関連する記事は「90歳の母が教えてくれた想いを届ける力」
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