ミセルチカラの磨き方
同じパフェを見ても、見ている景色は違う
心意気を形にするコトノハ職人、岩井洋美です。

今日はいきなり、最近私が気になっている言葉について。
日頃から想いにしろ、価値にしろ、まだ言葉になっていない感情や思考を言葉にしていることもあって、その人が使う言葉、選ぶ言葉に対して「コトノハセンサー」が働きます。
「背徳感」という言葉。
ものすごいボリュームの食べ物を前にしたとき。
ものすごい高カロリーな食べ物を前にしたとき。
今まさに食べようとするときに、「背徳感がある」と口にします。「おいしそう!」よりも「背徳感」が勝っているかんじです。
本来の「背徳感」は「罪悪感」に近いもの。でも、この食べ物に対する「背徳感」は、いけないことをしている感覚ではないようです。
だから真夜中に食べる巨大なパフェは「悪いことしてる~」ではなくて、「今日は特別~」という「禁断のご褒美」ということなのかもしれません。
とは言え、私は引っかかるわけです。
「なぜ背徳感ってわざわざ言うんだろう?」
「こんな時間に食べちゃった」
「カロリーすごい」
「身体に悪そう」
という「健康上の正解」を知っているけど食べる自分を「背徳感」という言葉に負わせているような気がします。
そう思うと、「巨大なパフェ」そのものを食べているというより、"ルールをちょっと破って食べている自分"に関心の向きはあります。
そのこと自体を否定するつもりも、批判するつもりもありません。
改めて感じるのは、「食べ物」ひとつとっても、捉え方が違えば感情が動くポイント考え方も、発する言葉も違うということ。
「背徳感」と言いながら巨大パフェを食べる人を見て、「こんなの食べられるのか?」「すごいな~」で終わらせればいいものを、「なんで背徳感って言ってるんだろう?」と考えを廻らせて、その構造を考えているのが私です。
私の頭の中では「食べ物そのものは何も悪いことをしていないのに、背徳感と言った瞬間に悪いもの扱いになってしまうのはなぜだろう?」という問いが生まれます。
結局のところ私は「背徳感じゃなくて、おいしいだけでいいんじゃない?」と思ってしまうのです。
以前ブログにも書いたことがあるのですが、私にとっての「おいしい」は、味だけではありません。
作った人、一緒に食べる人、その場の空気、食べられる自分まで、全部含んでいるというのが、私の根底にあります。
それに、最近の私は「母にとっての食べること」を毎日実感させられていることも大きいと思います。
母にとって「食べること=生きること」です。
母の食べたいと思うものを、どうやって食べさせてあげるかということを考え続けた4ヵ月。
今もそれは続いていますけれど、味覚や臭覚が戻り、母が「おいしい」と言えることの価値を、ことさら重く受け止めていることがあります。
「背徳感」と言いながらパフェを食べる人もいれば、ただ「おいしい」と感じる人もいる。
同じものを見ていても、人によって心が動くポイントは違うし、そこから生まれる言葉も違います。
だから私は、「その人は何を見て、その言葉を選んだんだろう?」と考えてしまうのかもしれません。
人の数だけ見ている景色が違う。だから人っておもしろい。
そんなことを、「背徳感」という言葉ひとつから考えてしまいました。
それでは、今日も1日お元気で。
★関連する記事は「「おいしい」は、言葉にしてはじめて存在する」

「感じていても言葉にしなければ伝わらない」「言葉になっていなければ相手に届かない」といつもお伝えしていますが、「おいしい」ひとつとっても同じことが言えます。
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